昭和の音楽史、当時の世相と社会背景
〜その1 ラジオ放送開始から太平洋戦争終結時までの20年〜
三井 徳明(日本ポピュラー音楽学会 会員)
I 研究目的 高齢者への音楽療法場面では歌謡曲など昭和のポピュラー音減が数多く使われている。ただし現在の音楽療法士養成カリキュラムににはヒット曲の作られ方、当時の音楽状況などといった音楽社会学的な学習内容は少ない。ただし音楽療法士には必要不可欠な大事な知識の一つである。
II 方法 (1)当時の曲調や歌唱方法の分析(2)人気歌手の作られ方(3)マス・メディアの取り組み方(4)ヒット曲と当時の世相や社会背景などを知るためにレコード音源や文献収集を行った。
また、歴史的事実を明白とするため関係者へのインタビューを行った。
III 結果 歌謡曲の始まりは大正末期から昭和初期の鳥取春陽などのいわゆる演歌手の活躍に始まり、昭和2年(1927年)現在のビクター・レコード、コロムビア・レコードが流行歌と表記、同年二村貞一が歌った青空はレコード売り上げ10万枚を記録した。ちなみに当時の市場規模は現在の10分の1程度であった。その後日本放送協会(NHK)は流行歌という名称を下品であり放送上相応しくないとした。そのため現在のキング・レコードは昭和6年(1931年)表記を歌謡曲と改めた。
昭和初期の歌謡歌手は音楽学校で専門教育を受けた藤山一郎、渡辺はま子などと芸者出身で伝統的音楽教育を受けた小歌勝太郎、藤本二三吉などに分けられる。その後音楽産業は拡大し東海林太郎、ディック・ミネなど比較的裕福な家庭で音楽以外の高等教育を受けた人たちが歌手が活躍した。そして昭和10年代中期に入り田端義夫など系統だった音楽教育を受けていない歌手が出現した。また日系二世歌手や外国人歌手も出現するなど歌謡曲だけをみても歌唱スタイルはより多様化した。その結果として大衆娯楽映画も充実し昭和13年(1938年)に愛染かつら、昭和14年(1939年)支那の夜など男女のロマンスを描いた作品が大流行した。またヒット曲の特徴として小歌勝太郎の島の娘。渡辺はま子の忘れちゃいやヨなど女性が大胆に愛の表現をするようにもなった。そこにはラジオ放送は全国的となり受像器の普及が大きく影響したといえよう。しかし昭和12年(1937年)の盧溝橋事件に始まる日中戦争、それに伴い昭和13年(1938年)国家総動員法発令、昭和15年(1940年)英語の使用禁止令発布、同年11月1日には全国すべてのダンス・ホールが閉鎖、昭和18年(1943年)ジャズ音楽の演奏やレコード発売が禁止された。
このような文化統制下の中で昭和13年(1938年)渡辺はま子の愛国の花、昭和15年(1940年)徳山lは隣組など国民歌謡(後に戦時歌謡とも呼ばれた)が作られた。
IV 考察 今回昭和の音楽史を見てきた結果(1)ヒット曲の作られ方にはレコード会社の戦略としていかに人々の心を掴むか? 人々が何を求めているか? そして専門家による企画化といった現在のマーケティング戦略がこの時代にすでに存在していた。(2)ラジオ放送の歌詞と普及によって当時の言葉で言う流行歌のヒット曲がそれまでの地域的、階層的に異なっていたのに対し全国的で階級に区別されず、一定の世代的のものへと拡大した。(3)ラジオにより情報源は拡大し政府による弾圧にもかかわらず民主主義は浸透し女性の自己主張が可能となり同性代の人たちからも支持された。(4)日中戦争や国家総動員法など一連の文化統制によって音楽産業全体が著しく衰退したことが揚げられる。
上の結果ようり昭和の音楽を語る上で当時の世相や社会背景が大きく影響していることを証明出来よう。
V 結語 今回の発表テーマは直ちにに臨床場面に結ぶつくものではない。ただし音楽療法士は深い専門性が要求され高度なサービス提供のためにも音楽社会学的知識の習得が不可欠であるといえよう。