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参加学術団体


第11回日本音楽療法学会学術大会



                                                2011年9月11日 富山市 国際会議場


          
昭和の音楽史。当時の世相と社会背景

〜その2 戦後復興期から高度経済成長期までの20年〜

                                          三井 徳明(日本ポピュラー音楽学会 会員)

 Ⅰ 研究目的 我が国の音楽療法の現場では歌謡曲など昭和のポピュラー音楽が数多く使われている。ただし曲目の作られ方、当時の暮らし方と言った音楽社会学的知識は音楽療法を行うためには知っておくべき重要な知識項目の一つである。そのため昨年に引き続き詳細な昭和の音楽史を調べてみた。

 Ⅱ 方法 (1)GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による急激な社会変化と人々の暮らしを調べる (2)ヒット曲の作られ方の変遷(3)マス・メディアの関わり方(4)当時の世相と社会背景をを知るために当時の音源や文献収集を行い、文章化されていない事実を知るために関係者へのインタビューを行った。

 III 結果 昭和20年(1945年)10月公開された映画「そよ風」」の主題歌で霧島昇・並木路子「リンゴの歌」は敗戦後の失望と混乱、食糧難の中にある人々の心を癒し勇気を与えた。昭和22年(1947年)笠置シズ子「東京ブギ・ウギ」は米国のポピュラー音楽のように踊りながら歌うスタイルは目新しく感じられた。昭和27年(1952年)ラジオ・ドラマ「君の名は」は映画化もされ偶然の社会現象を招いた。国家の復興も進み人々の暮らしも安定した昭和30年代初期に入り我が国最初には歌詞の内容が都会的イメージが色濃く画かれたフランク永井「有楽町で会いましょう」。また男女が歌詞の中で絡み合うデュエット曲フランク永井・松尾和子「東京ナイト・クラブ」など曲調に変化が見られた。昭和33年(1958年)日劇ウエスタン・カーニバルは米国スタイルのステージ・ショウであり、20年間の興行は若い世代に大きな影響を与えた。昭和30年代中期に入り10代人たちには青春歌謡や欧米のポピュラー音楽の日本語カバー・バージョンが大流行した。一方勤労者の中心が給与生活者となりサラリーマンの生活を風刺した植木等「スーダラ節」が話題となった。また和田浩志とマヒナ・スターズ・松尾和子「お座敷小唄」二宮ゆき子「まつのき小唄」に見られるお座敷ソングや、バーブ佐竹「女心の歌」森進一「女のため息」のように男性が女性の心を歌った曲目はレコード売り上げ100万枚以上を記録した。1965年米国の人気バンド、ザ・ベンチャーズの演奏スタイルがラジオを通じ伝えられ若い世代に好まれた。その結果各地にアマチュアのエレキ・バンドが多く誕生し物議を交わした。その後歌謡スタイルの歌唱を加えたグループ・サウンズへと繋がった。

 IV 考察 今回の研究の結果(1)戦後まもない昭和20年代初期には明るい曲調のものや米国のポピュラー音楽の要素が含まれた曲目が作られ好まれた。中期に入りラジオ・ドラマや映画によるファッションや社会現象も発生した(2)昭和30年代初期に入り歌詞の内容が都会的イメージを持つ曲目や男女が曲の中での絡み合う曲目など大衆音楽に変化が見られた。(3)昭和30年代中期から後期に欠けて音楽市場の中心が10代の人たちとなり青春歌謡と言われるものが多く作られ現在も愛唱されている曲目もある。また米国・英国で作られた曲目の日本語カヴァー作品が大流行した。またテレビ受像器の発展普及によってこの当時の若手歌手はバラエティー・ショウやテレビ・ドラマに出演した。その結果ファンとスターが今までよりも身近なものとなった。(4)昭和30年代後期から40年代初期にかけて大人の歌謡曲もお座敷ソングと呼ばれるものや男性歌手が女性の心を歌った曲目は記録的なレコード売り上げを記録した。(5)昭和40年(1965年)に始まるエレキ・ブームは騒音や少年の非行化などの批判を受けていた。この流れは後のグループ・サウンズに繋がり日本人の演奏技術や歌唱力を向上させた。また演奏者や歌手が直接曲目作りに参加しそれまでの曲調をも変化させた。これは我が国のポピュラー音楽の一代革命の一つとも言えよう。

 V 結語 今回の発表は高齢者や障害者施設での音楽療法には直接役立つ時期の音楽史である。対象者のリアルなヒストリーを施すためにも有益であり、臨床現場の音楽療法士への指針となったとも言えよう。